教養とはなにか、といって検索すれば辞書的意味はすぐ出てくる。
「独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態」
教養 – Wikipedia
一定の社会階層・集団の中で知っていて当然とされる情報の体系、とかなんとか言うこともできるかもしれない。
その一定が一定でなく、多種多様であるというところが、話がややこしい原因である。ややこしい、というかむしろ逆に単純化されている、とも言える。
一般教養と言うと大学のカリキュラムだが、大学以前の、中学高校過程でも、なんとなくベタな教養的なものを意識した科目はある、古典とか古典とか音楽とか。
で、ほとんどの人間にとってそれらは良い思い出を残さない。
なんで勉強するのか納得がいかず、いやいやテストのために勉強し、いやいやだから点数も伸びず、入試で求められるならまだしも、私立などでは科目を減らす一方である。
要するに、使えない。使わない。だったらいらないではないか、というのはわかりやすい理屈だ。これへの有効な反論はあまり知らない。
また、教養があるとかないとか、そんなものを他者に要求すること自体がけしからんという声も大きくなりつつある。
教養というよりマナーの話だが、プロ野球のダルビッシュが箸の持ち方を巡って、先日、ツイッター上で荒ぶっていたのだが、ことの発端となった不登校児はまだ幼少だからいいとして、いい大人がきちんと(少なくとも日本の先端をきちんと合わせて米粒豆粒を問題なくつまめるように)箸を握れないのは恥ずかしいという感覚は、わたしにはある。
だがこれももはや一般的なセンスではないようである。箸をどう持とうが栄養が足りていればいい、ということのようだ。まあたしかに。
ひどいのになると(ひどいという評価も不適切なのだろうか)両の箸をまとめて握ってスプーンのように食べづらそうにしている人もいて、それはさすがに合理性の観点から改善を勧奨したいところだが、これも余計なお世話なのである。
話がずれた。
予め一定の体系だった教養を規定するという概念自体が権威的であり、差別的であり、時には国家主義的であるのかもしれず、それらが相対化され、解体されるのも悪いことではないのかもしれない。
それはそれとして、やはり一定の教養はあったほうがいい。
いまだ予断を許さないコロナウィルスだが、日本からチャイナへの支援物資に漢詩の一節が書かれていて、大変好評だったとのニュースがあった。
NHK NEWS WEB 支援物資に中国で感謝の声 鑑真に贈った漢詩の引用も話題に 2020年2月4日 19時23分
日本経済新聞 鑑真招いた「来縁」の袈裟 唐招提寺(もっと関西) 時の回廊 2018/6/6 11:30
使えるかどうか、自分が必要かどうかとは別に、他者と繋がり、わかりあえるチャンネルを増やす、という意味で、教養はたしかにあったほうがいい。
そしてド定番のベタな古臭い教養体系は、古いぶん、間口も射程も広いように思える。多種多様の新種雑種の”教養”体系の元ネタであり基礎であり幹であり原型であるのだからして。
まあ、私自身、そんなものは持ち合わせていないのだが。